『ノイズ 音楽/貨幣/雑音』について
アタリは政治経済、社会科学などが専門のようだが、『ノイズ 音楽/貨幣/雑音』は音楽を中心に添えている。「音楽は予言する」という言葉があり、音楽はその原理から、来るべき時代の告知を含んでいる。つまり、音楽は社会の鏡として機能しており、世界の流れを知覚するひとつの手段でもあるということ。読むとわかるがこの本はノイズ・ミュージック研究本ではなく(ノイズは重要なポイントだが)音楽と人間の歴史にまつわるスケールの大きな本である。
音楽についての理論書ではなく、音楽によって理論化すること。
まず最初にあるのはノイズ(雑音)についての解釈である。 雑音を理解せねば音楽は理解できない。
雑音とは、通信過程において、メッセージの聴取を妨げる音響、即ち、時を同じくする生の音、一定範囲内の周波数と種々の強度をもった音の総体である。雑音はそれ故、それ自身独自に存在するのではなく、それを含んだシステムとの関係においてのみ存在するーー発信、通信、受信。この雑音概念(あるいはむしろ換喩)は、情報理論によって、より一般的な仕方でとらえ直されたーーそこでは、ある信号が、受信者に対して何らかの意味をもつもたないにかかわらず、メッセージの受信を妨げるとき、それが受信者に対する雑音と呼ばれる。もちろん、こうした理論化以前から、雑音はつねに、メッセージを構成するコードに対する破壊、無秩序、汚れ、冒瀆、攻撃等々と直観されていた。こうして、雑音は、あらゆる文化のなかで、凶器、漬神、災禍の観念に結びつけられていたのである。「見よ、わたしは災をこの所に下す。おおよそ、その災のことを聞くものの耳は両方とも鳴る」(エレミア記第十九章三)「復活の太鼓が鳴り響くと、彼らは恐怖に耳をふさいだ」(AI Din Runir, Divani, Shansi Tabriz)。
雑音はまた生物に害を与える凶器にもなる。ある限界をこえれば死に至らしめる非物質的な凶器だ。これはまあ、わかるだろう。
しかし、そのような死の凶器たる雑音はまた、死が生の過剰であるように興奮の源泉として考えられてきた。
そういった不明瞭かつ危険な雑音は、死への呼び声だろうか、神の足音だろうか?
音楽は、こうした不吉な根源的雑音との交通、すなわち祈祷として登場する。
つまりまあ、供犠である。(代理的な死の象徴としての雑音との交信)
殺人としての雑音と供犠としての音楽とは、しかし、たやすく納得できる仮説ではない。そこには、音楽が供犠として機能するということが含まれるーー雑音を聴くこと、それはいわば自分自身を殺害することにも似ているーー音楽を聴くこと、それは、危険で罪があり、しかし安堵させてくれるものと、儀礼としての殺人に立ち向かうことであるーー喝采すること、それは方向づけられた暴力を通して、本質的暴力の行使への還帰が可能であることを、供犠の観客となることによって再確認することにほかならない。
また、音楽が神話の代替物となる分析うんぬんもある。
そういった話はたまにあるが、アタリはさらに音楽は神話の現代的代替物であるばかりでなく、それはそれぞれの時代にそれぞれの神話に登場し、儀礼的供犠の模倣、社会的秩序との和解に一役買ってるんじゃマイカ。
あとでハーモニーの議論(調和)がある。
いろいろ書くことはあるのだが、「コードの力学」の章について引用しておこう。
ここにあるのは音楽の伝播、音楽の"系"(レゾー)についての話だ。この"系"レゾー(系はネットワークみたいな理解でいいのではないかという意見をXで見た)、四つの音楽の系があるらしい。この四つの系はこの本の根幹をなすので引用しておく必要がある。
四つの系
まずはじめに、すでに記述した供犠的儀礼の系。それは、象徴的社会における神話、経済的、社会的、宗教的諸関係、要するにありとあらゆる秩序伝播の系である。それは、イデオロギーの平面では集権化され、経済の平面では分権化されている。
演奏とともに、音楽の新しい系が現われる。それは、特別な場所のなかでの見世物であるコンサートホール、儀礼の模倣の閉じられた場、入場料の徴収に必要な閉鎖性。
見世物としての使用価値は、そこで、先行する系における行為としての供儀の価値を模倣し、それにとって代わる。演奏家と役者は、見物人から金で報酬をうける特殊なタイプの生産者となる。この系が自由競争的資本主義の経済の特徴を描き出すことは後に見る。
第三の系、即ち、反復の系は十九世紀末、録音技術の発明によってもたらされた。そもそもは、その場限りの演奏を永らく保存するために開発されたこの技術は、五十年も経ないうちに、レコードの発明をもたらし、新たな系を生み出すことになるのである。観客はそこで、一人一人別々に、物=音楽と孤独な関係を結ぶ。音楽の消費は、個人的なもの、形骸化された、供犠のコードによる儀礼の模倣、盲目的見世物となる。この系はもはや、社会性の一形態でも、観客相互の出会いと交通の機会でもなく、ただ、音楽の莫大な個人的ストックへと道を開くにすぎない。この系は、音楽のなかに、資本主義組織の新たな段階、画一的大量生産、反復的生産の段階を告知するものとして現われる。
そして、交換の彼方に考えられ得る最後の系。音楽は、そこで作曲、即ち音楽家の享受、根本的にすべての交通の外にあり、自分自身の悦び以外の目的をもたぬ行為、自分自身との交通、自己超越、孤独で個人主義的な、それ故非商業的な行為となるであろう。
本書は、この四つの系をメインの流れとして扱っていると言ってもよい。
目次からして
聴く
供える
演奏する
反復する
作曲する
"聴く"のあとは、四つの系を意識した流れで書かれている。